Archive for the ‘Event’ Category

昨日(18日)、6kmのレースがありました。

学校を代表して、地方大会のレースに出場する生徒を決めるレースです。

男女混合、学年も混合。みんな一緒にスタート。

  

  

レース後の点呼を待っている瞬間。

気心の通い合った仲間たちと、完走した喜びをかみしめているでしょうか、それとも、決して結果に満足することなく、あそこでこう走るべきだったとさらなる改善を頭の中で巡らせているのか、次への闘志を燃やしているのか・・・。

風邪を押してもなお走ったシュウヘイ君。止められても走り抜くその根性。何に駆り立てられているのでしょう。

11年生と12年生の先輩たちの爽やかで、そして、すばらしいレースでした。良いタイムが出ているといいですね。

 

    

    

 

なんとすばらしい日だったでしょう!

生徒一人残らず全員が、波に乗った日でした。

Well done, everyone!

生徒たち一人ひとりがそれぞれ満足ゆく1日を過ごすことができたのはとても嬉しいことです。

  

100m走、200m、400m、800m、1500m、ジャベリン、円盤投げ、砲丸投げ、ハイ・ジャンプ、ジャンプ、100mリレーなどなど、いろいろな種目がありました。

ほぼ全員が、何らかの、あるいは、幾種類かの種目に参加。順位なんて関係無い。参加する、その仲間になる、やってみる、遊び半分、なんでもいい。ともかくも、挑戦に臨んだことがすばらしい! Well done! 本当に何度も褒めてあげたいです、全員の心意気を。

オリンピック紛いの入場式。各ハウスの色に分かれての行進(?) とんぼ返りも見事に決まっていました。

  

  

 

 

 

 

NB校ボランティアのところで、落としてしまいました。

今年のまとめ役、キャプテンの役目にハルノさんとアユミさんの手がさっとあがりました。お役目、大変でしょうが、がんばってください。よろしく!

*****

4月25日は、ANZAC DAYと呼ばれる旗日でした。

ANZAC というのは、Australian and New Zealand Army Corps(オーストラリアとニュージーランドの陸軍団)の略です。

このANZAC DAYに先立って、オーストラリアのどの学校でも、黙祷を含む特別な学校集会が開かれます。例外無く、どの学校でも、です。DHSでも休暇に入る前にありました。ICETの生徒たちも参加しています。

これは、この国の国家行事であり、最も神聖な日です。宗教にも関係ありません。オーストラリアの学校に在籍する子どもは、全員参加します。他には、年間を通して、全国共通に実施されるというものは見当たらないので、それほどに、この国の国家にとって大切だということです。

オーストラリアは、自国で戦争を体験したのは、第二次大戦中日本がダーウィンを襲撃した時のみです。でも、英国連邦下にあるために、英国が戦争を仕掛けたり巻き込まれたりするたびに誇りを持って派兵します。第一次大戦の際にも、オーストラリアとニュージーランドからは、何万人もの兵隊さんがヨーロッパに向かいました。

オスマントルコと組しているのはドイツ。コンスタンティノープル(現イスタンブール)を落とすために、黒海に抜ける道を切り開こうとし、大英帝国とそれに従軍するオーストラリア兵、ニュージーランド兵、インド兵を率いるウインストン・チャーチルがガリポリ半島から攻め入る作戦を立てました。

1915年4月25日の未明、ガリポリでこれから上陸しようとしている船が襲撃され、1日の明け方だけで、何千というたくさんの兵士が亡くなりました。結局、この作戦は8カ月も長引き、1万人を越える兵士が命を落としました。オーストラリアにとって、この戦いは、忘れがたいものとなり、この4月25日は、ANZAC Dayとして定められ、オーストラリアでもニュージーランドでも、約100年経つ今に継承されています。

オーストラリア全土の町という町で、未明に特別な儀式が行われ、昼間には、行進があり、オーストラリア人全員がこの日には、過去を振り返り、未来を見つめ、現在の平和があることを感謝し、戦いで命を犠牲にし国に貢献した人々の功績を称え、鎮魂を祈ります。国自体の歴史が短いこの国で、100年続いているということはすごいことです。そして、年を越すごとに重みが増し、幼稚園児の年齢の子どもたちにもきちんと伝承されています。

大和魂とか、日本人精神とかを知るためには、本当に深いところで日本の文化や歴史を感じないと、それを肌で感じ取ることはできません。同様に、オーストラリアの人々の心の深いところにあるオーストラリア魂のようなものを感じ取るには、オーストラリアの人々にとって、最も大事なことを一緒に体験してみないと、その深いところに触れることはできません。それでも、本当に理解することはできないかもしれませんが、少なくとも、そこに近づくことはできます。

ANZAC DAYは、おそらく、そこに一番近づくことができる日であり、機会です。

オーストラリア魂・・・ 友情、勇気、忍耐、逆境に折れない心、共感、人道、正義。やらなければいけないことなら一緒にやろうよ。たとえ、そこに死が待っていても。普段は明るくおおらかな印象を与えるオーストラリアの人々ですが、戦時にまつわるたくさんの話しにはこうした彼らの心底に持つものが溢れています。

こうした資質を称え、思い出し、感謝するのがこのANZAC DAYです。

ICETの生徒たちは、毎年、国家の中枢で、この日を体験します。普段は、首相や総督が出席するのですが、今年は、お二人ともガリポリにいらしたとのこと。

 雨も降らず、時々日が差す幸運な天候だったのですが、温度は低く冷たい風が吹くので、生徒たちは、雨降りようのビニールのポンチョを膝に巻いたり、体に巻きつけての見学でした。1時間45分、身動きすることなく、話をすることなく、目の前に広がる式典に集中することが求められます。

時間は、あっという間に経っていきます。

ICETの生徒たちが座る席は、壇上にある貴賓席をすぐ見上げるところにあり、来賓席の後ろにありました。毎年、だんだんと花輪を献花する場所に徐々に近づいたところになっているのは、私たちのこのプログラムにも歴史が積み重ねられてきているということなのかもしれません。

会場を囲む塀の外には、参加するための席が得られなかった人々がたくさん集まっていました。

式の前に、「日本人の方ですか」と軍服を召した方から尋ねられました。防衛省から派遣され、日本国大使館にご勤務だとおっしゃる一等海佐の方でした。この会場で他の日本人に出会うことは初めてのことなので、少し驚きましたが、昨年も参加していらしたとのこと。生徒たちの写真を一緒に、という求めに快く応えてくださっていました。

毎年、ICETの生徒たちが、このANZAC DAYに参加する主旨をお話すると、「それは、すばらしいことですね」と、日本の若者にこういう学び方の機会があることを喜んでいただけたことは、私にとっても、これを継続する意義を鼓舞されるものとなりました。

  

この式典をもって、今回のキャンベラへの旅は終了となりました。

持ち物リストがあり、そのことを特別に言われていても学校の制服をもってこなかった生徒、3日間の間、この時というときに静かにできず「けじめ」をつけることができなかった生徒、遊びに夢中になり、この時という要の時間に行動を合わせる「けじめ」を示すことができなかった生徒は、この旅の大きな目的のひとつであった式典に参加することはできませんでした。

何時間もかけてGlobal IssuesやCAPDの中で準備してきた今回の旅であり、他のすべてのクラスで「自制心」を養い「けじめ」をつける訓練が必要であった1学期の流れを考えると、そのレベルに至らず、絶対に失敗やミスが許されないこの式典に臨むことができなかったのは、非常に惜しいことですが、致し方ないことです。

学校と家の往復という形の決まった生活から、旅というまったく違う形式の時間を過ごすことは、子どもたちにとって、新しい発見があり、新しい視覚が開拓され、新しい学びがたくさんあります。上手に行ったこと、上手に行かなかったこと、そのすべてが学びです。でも、特に、上手に行かなかったことからは、上手に行ったことよりも、何倍、何十倍の学びがあるはずです。

留学は、まだ、4分の一が終わったところです。これからまだいろいろなことが予定されています。今回の4日間で学んだことを、これからの生活の、そして、勉学の知恵として活かしていって欲しいですね。

 

Vive la différence!

違いを謳歌しましょう。国籍や民族に関わらず、違いを謳歌し、みんなが仲良く交流しましょうというのが、Harmony Dayの目的です。

「ソーラン節」の練習を2週間にわたって引張ってきたユリナさん、ソーラン節を踊った生徒たち全員、Face paintingやCalligraphyの持ち場でがんばった人たち、何時間もお料理に携わった生徒たち、みな、本当に一生懸命、それぞれの役目を果たしました。ご苦労様!! 見事でしたよ。

改めて感心したのは、11年生と12年生の上級生。これをお願いと頼めば、似たような場面は何度も体験済みなので説明する必要もなく、その場で陣頭指揮を執って動き、どんなに時間が長くても終了するまで持ち場を離れることなく、徹底して責任を持った働き振りを見せました。

上級生としての貫禄と立派さがしっかりと現われている行動でした。1年の体験の重みを感じることができるものでした。

 

 

浴衣を着て、かわいい草履を履き、みんな気持ちが乗ってきたところで、「草履はだめ! 靴に変えなさい」というDHSの教頭先生からの指示に、みな、「ええええ。そんな・・・」。なんと残酷な。

でも、教育省の条例で、キャンパス内では、どういう状況においても指がきちんと覆われる靴をはいていないとダメ、と決まっているとのこと。こんな場合でも、例外なし! それをみなに伝えなければならないのは、ちと辛かったですね。みな、泣く泣く、運動靴に。

  

ソーラン節を踊るために、浴衣を拭い捨て、大急ぎでスポーツ着に着替え、法被をまとって颯爽と登場。

タイミングやいろいろなことが臨機応変を要求されたHarmony Day. 今の地球は、常に臨機応変を要求されるところ。ひとつの試金石だったのかもしれません。

 

 

 

 

 

オーストラリアには、ANZAC Dayと呼ばれる日があります。

あさってから休暇に入り、その日までに、学校集会が開かれるチャンスがないからでしょうか、4月25日に先立って、今日、学校で、ANZAC Day Assemblyという集会が開かれました。

この日は、オーストラリア人にとっては、大きな意味があります。

1915年にイギリスがトルコを攻めました。英国連邦下にあるオーストラリアとニュージーランドは、協力するために遠くから兵を送りました。その戦争は極めて悲惨なもので、1万人を超える兵士たちが、トルコのガリポリで命を落とす結果となりました。

その兵士たちの勇気を称え、死を弔うことを目的として1921年にオーストラリアで設定された日です。

毎年この時期になると、オーストラリアからガリポリを訪れるためにツアーが組まれ、休暇を利用して旅行する高校生もかなりの数になります。

現在は、この日は、第1次世界大戦、第2次大戦、ベトナム戦争などオーストラリアが過去に参戦したすべての戦争で国のために命を捧げた人々の勇気を感謝し、オーストラリア国民として平和を祈願し、オーストラリア人としての誇りを確認する日となっています。

シドニーやメルボルンなど大きな都市では、戦争で活躍した人々やそれを称える人々の大行進が行われ、地方ではさまざまな催し物が実施されます。戦争記念館のあるキャンベラでは、大々的な式典があります。

オーストラリアの学校では、ANZAC Dayの前日に全生徒が参加して1分間の黙祷を捧げます。今日、DHSであった集会は、このためのものです。

この時期になると、多くの学校で、戦争に関しての勉強会が開かれます。歴史をひも解き、戦争が起こった世界背景やオーストラリアが参戦した理由などを学習します。国のために命を捧げた人々に感謝し、国を護ることの大切さを改めて認識し、愛国心を培う大切な時間だととらえています。

「愛国心」という言葉に極度に神経質になる日本とは大違いです。

戦争の悲劇を知り、平和の尊さを若者たちに訴える時です。実際に戦争に参加した元軍人や看護婦さんなどを学校に招待して、たくさんの写真や思い出の品を見ながら、戦争の実体験の話を聞いたりする機会を設けているところもあります。ハイスクールでは、戦争に関するエッセイ・コンテストやディベートなどを催すところもあります。

ガリポリで起こったことは、第一次大戦のことですが、オーストラリアでは、その頃の戦争体験者はもうほとんどが亡くなっています。ベトナム戦争はアメリカやその連合軍が強い非難を浴びるものだったので、ほとんど語られることはありません。それに引き換え、第2次大戦は連合軍の勝利だった戦争です。そして、その体験者もまだたくさん存命しています。だから、ANZAC Dayの催しの前後には、第2次大戦のことがたくさん語られます。

そこには、敵同士だった日本のことが当然のこととして出てきます。敵同士だったことを知らずに留学してきた生徒には、思いがけない事実にぶつかり、いろいろなことを考えるきっかけになります。

第二次大戦中に起こったことを振り返ると、日本とオーストラリアがこんなにも仲良しで、すばらしい友好関係をもっていることは、本当にありがたいことです。戦後に、ふたつの国の良い関係を築くために努力してくださったLionel Marsden(ライオネル・マーズデン)神父やTony Glynn(トニー・グリン)神父のような方々のほかにも、たくさんの民間の善意があったことは間違いありません。

人道的な勇気ある行動をした人々に出会ったり、お話を伺うような機会もよくあります。

そういう先人たちの献身的なご苦労があったからこそ、後に来た私たちや留学生たちは、この国で本当に大事にされます。

それに感謝し、心のつながる交流を深めていくことは、留学生に何よりも先に求められることです。

生徒たちが、その意識をもって毎日の生活に臨んでいてくれることを祈ります。

以上、昨日のものですが、公開のボタンを押さなかったようです。

 

 

 

シドニーのハイド・パークは、ロンドンのハイド・パークを擬したものです。

公園の入り口に、大きな噴水があります。ギリシャやローマの神話の主人公たちが動物たちと一緒に並んでいます。

上に立つ太陽神アポロ、水辺の月の女神ディアナ、そして、人身牛頭の怪物ミノタウラスを倒した英雄のテーセウス。

アポロは、詩や音楽の神としても知られています。この噴水は、「The Bulletin」というオーストラリアのタイムズ紙のような雑誌社の創設者であり、芸術のパトロンだったアーチボールド氏を偲んでArchibald Fountainと呼ばれています。

オーストラリアには、新鋭のそして異質の芸術家を開拓する「アーチボールド賞」という芸術賞もあります。

アート・ギャラリーには、非常に美しい日本からの作品がありました。

 

表示には、作者不明。1650年から1660年に制作された青手古九谷とありました。 なんとも言えなく美しい色と形に魅了されました。

 

 

 

旧約聖書にあるシバの女王がソロモン王を訪ねた場面の絵がありました。作者の名前を控え忘れたのですが、とても、印象的な絵でした。光が反映してみにくくてすみません。

 

生徒たちを案内するはずの1日だったのですが、私にとってもとても楽しい1日でした。

 

 

 

 

 

朝9時半ちょっと前、学校の近くのバス停で集合。

最初に見学したのは、Tha Barracksです。

  

200年前のシドニーは、穏やかな風景で、囚人たちが重労働を強いられていたことは、この絵からは想像できません。仕事で疲れきった体には、こんなハンモックでも、ぜいたくなベッドだったのでしょうか。

最終的に、自由意志ではなく、囚人として強制的に移動させられたのは、16万人を越えました。

その中には、飢餓が苦しんでいたアイルランドから送られてきた4千人を越える孤児の女の子たちも含まれていました。船から下りる際には、「まるで、小包のように放り投げられた」という説明の描写がありました。それほどに、まだ小さな子供たちだったのでしょう。

「バラックス」にいる間に雨が降り始めました。雨宿りを兼ねてセント・メアリー大聖堂に移動したのですが、たまたま、大きなミサがあり、「あと10分入れない」ということ。お腹がすいたという生徒たちもいて、大きなイチジクの樹の下ならなんとか塗れずにランチを食べられそうかな、と思ったのですが、大きな判断ミス。

濡れネズミになって、また、大聖堂に。先ほどの大きなミサは、「産まれなかった子ども達のため」のもので、大きなデモ行進の前のミサだったようです。親の選択で命をもらえなかった子供たちに祈りを捧げ、そのような判断を親がしないように、というデモ行進だったようです。

 

明日一番最初に見学する博物館の説明です。

以下は、Barracksのサイトに掲載されている情報の邦訳です。

バラックスについて:

ハイド・パーク・バラックスは、囚人の男の人たちと少年たちを住まわせ、衣服と食べ物を支給するために1819年に建設されました。

この印象的なレンガの建物は壁が二重になっていて、シドニーの歴史に満ちたMacquarie St.の最初にあり、自身も囚人であったフランシス・グリーンウエイによって設計されました。

1848年以降は、建物の中心部は新しく移民として到着した女の人たちの寝所として使用され、その周りの建物も政府の役所として使用されるようになりました。

1862年には、貧しい女性たちを保護するために上層階に別棟が加えられ、それ以後、この建物は、the Hyde Park Asylum(避難所・保護施設)という名前で知られるようになりました。

1887年に、シドニーでは、大英帝国女王クイーン・ビクトリアの戴冠50周年が祝われ、その際にたくさんの公的な建物や記念碑が建造されました。ハイド・パーク・バラックスは、その時から、政府の役所の中枢となり、Chancery Square(法廷広場)という名前になりました。

1970年後半まで、公務員、法にかかわる人々、訴訟にかかわる人々とそれを収容する場所が複雑に増え続ける中、何千人という人々がこの薄汚い建物を使用してきました。The Hyde Park Barracksは、その歴史を語る博物館になっています。

囚人たち:

1819年から1848年の間に、約5万人の囚人の男の人たちと少年たちがこの「バラックス」を通過していきました。大方の囚人は、物を盗んだとして大英帝国の裁判所で裁かれ、7年または14年の刑を受けた人々です。良い行いをした囚人や、役に立つ技術を持っている囚人には、それに対しての報酬や恩典やもっと責任のある地位が与えられたりしましたが、ここでの生活は厳しいルールと制裁、単純な重労働が定型でした。

「バラックス」にいる囚人は、毎日招集され、町の周りにある仕事場まで歩きました。グループとなって、シドニー初期の波止場や道路、教会や病院、石切り場や橋、要塞などの建設に従事しました。彼らが使う道具や用具、彼らに支給される食事や衣服は、修繕、織物、パン焼き、帽子作り、ガラス切り、園芸、車輪製造、家作り、かぎ作りなどの技術を持つ囚人たちの手によって賄われました。

1830年からは、ここで定期審理法廷が開廷されるようになり、囚人と雇用主は、問題があれば告訴し、各種の懲罰が判事によって下されました。罰の中には、残酷な踏み車、ムチ、鉄の足かせ、独房、遠いところでの道路工事の従事などがありましたが、そのうちの最悪なものは、Cockatoo Islandに送られることでした。

(注)The Hyde Park BarracksもCockatoo Islandも両方とも、囚人の歴史の1ページを示すものとしてUNESCOの世界遺産に加えられています。Cockatoo Islandは、シドニー湾の中にある島です。

この続きは、また明日に。

*******

以下は、ユウイチ君からの寄稿です。

「オーストラリアに来てから改めて自分と向き合えるようになってきたと思います。日本での自分は、こんなもんで良いかとか、そんな適当な感情でした。しかし、改めて外国に来て、適当ではこっちの生活がよくおくれないと思い、危機感を感じるようになりました。

オーストラリアに来て、日本がどれだけ恵まれているのか分かりました。

あと、オーストラリアに来る前に分かっていたんですけどバドミントンがさかんではないことを…

しかし、早くオーストラリアのバドミントンチームに少しでも早く入り、世界のプレーに触れ、そして、日本に居る同期のバドミントンプレーヤーを見返したくなりました。

元々、私は英語があまり好きではなかったのですが、何とか頑張っていけています。ホストファミリーもよく色々な所に連れて行ってくれるので、家での生活は楽しいです。」 by Yuichi

昨日からの続きです。

ヨーロッパから白人たちがやってきたオーストラリア・

北アメリカのインディアンや中南米のインディオに起こったような悲惨な運命が、先住民のアボリジナルの人々にも待っていました。

鉄砲なんて見たことも無い人たちが、銃弾で撃ち殺され、何の罪も無いのに、どこかからやって来た人たちに迫害を加えられたのです。たくさんのアボリジナルが殺され(タスマニアに住んでいたアボリジナルの人々は全滅)、生きている人たちは内陸部に追いやられ、それまで平和に住んでいた土地を取り上げられてしまいました。

一方、囚人として送られた人々は、どんな生活をしたのでしょう?

何週間もかかって船で移動する間に、栄誉不足で壊血病にかかったり、途中で死んでしまったり人もたくさんいました。まったく何もない土地に新しい作物を植え、住居を造り、生活の基盤を作り上げていくのですから、新天地での生活は決してらくなものでなかったことは簡単に想像できます。その上に、囚人は自由の無い人たちです。毎日朝から晩まで働かされ、ろくなものも食べず、汚れた衣服を身にまとい、何かすれば、すぐにムチ打ちが待っているという生活でした。

囚人たちは、植民地の開拓、そして、公共の建物や道路など町造りの重要な労働力となりました。また、大英帝国の役人の家のための仕事をする人もいました。囚人の約5人に一人が女の人でした。織物工場で仕事をしたり、役人の家のメイドとして雇用されました。でも、仕事がなく、売春をしたり、ひどい扱いを受けた人たちもたくさんあったようです。

シドニーの観光地ロックスは、最初に囚人たちが仕事をした場所のひとつです。Argyle(アーガイル)という通りの岩は、囚人たちが削ったものですが、その苦労が充分に感じ取れます。

日曜日に最初の訪問するThe Hyde Park Barracksは、そんな囚人たちの様子がよくわかる資料が残されている博物館です。

その内容は、明日に。

以下は、ユリエさんからの寄稿です。

「こんにちは!

オーストラリアに来て、昨日で二ヶ月が経ちました。

私は、SRCのメンバーになり、3月19・20日にSRCキャンプに行ってきました。SRCとは日本で言う生徒会のことです。
キャンプと言っても主にミーティングやディスカッションをして学校のことについて話し合いました。

そこで感じたことは、自分の英語力の無さです・・・
特にスピーキング力です。話し合っていることが分かっても自信も単語力もなく、何も発言することができませんでした。

SRCのキャンプを通してよかったことは、とても仲のよい友達ができたことです♪
その友達とはハローの挨拶だけでなく、相談を聞いてもらったり、楽しく会話をしたりしています!

6月にあるURA フォーラムのディスカッションでは、SRCキャンプの体験をいかし、自分の意見をはっきりと発言したいと思っているのでこれからもっとたくさん英語を話し、スピーキング力を上げたいと思います!」 by Yurie

赤ちゃんと同じで、聞くことがわかるようになってくれば、話せるようになるのは、そう遠いことではありません。